エピソード

聖徳太子と華道にまつわるエピソードを紹介します。
  • エピソード 01
    エピソード
    01
    3歳にして
    松の永遠性を見抜く
    『聖徳太子絵伝』 (池坊総務所蔵)には太子が3歳の時、父(のちの用明天皇)から「桃と松ではどちらを好むか」と尋ねられ松を選んだという逸話が残されています。その理由として太子は「桃の花が美しく咲くのは一瞬だが、松の緑は永遠だから」と答えました。常緑の松の葉に永遠の命を捉えるという考え方は、花伝書 『池坊専応口伝』にも記され、現代にも受け継がれています。
    『聖徳太子絵伝』に描かれる桃と松の場面は、乳母に抱かれた3歳の太子、向かい合うように父の用明天皇が描かれ、場面奥に松、桃が配されています。
  • エピソード 02
    エピソード
    02
    戦国武将も飾った!?
    出陣の花
    室町時代から戦(いくさ)に出る際に飾られた“出陣の花”“軍陣の花”には「ヌルデ」が使用されました。ヌルデとはウルシ科の植物で「勝軍木」とも表されます。
    仏教の受け入れをめぐって物部守屋と争う聖徳太子が、ヌルデの枝で四天王像を作り祈ったところ戦いに勝利したことから、のちの時代には、戦の折に勝利を願ってヌルデを使ったいけばなを飾ることが習わしとなりました。『聖徳太子絵伝』にはヌルデで作った四天王像を前に祈りを捧げる太子の姿が描かれています。
  • エピソード 03
    エピソード
    03
    いけばな発祥の地 六角堂を
    創建したのは聖徳太子
    用明天皇2年(587)、太子が16歳の時、四天王寺(大阪市)建立のための用材を求め、山城国を訪れたといわれています。現在の六角堂あたりの池で、身を清めるため念持仏を木に掛けておいたところ、念持仏がその場から動かなくなり“この地に留まり人々を救いたい”と告げたため、太子が六角形の御堂を建て安置したといわれます。その後、太子に仕えていた遣隋使の小野妹子が出家し、六角堂に入ります。
    『聖徳大使絵伝』の16歳の場面には創建した六角堂で祈る太子の姿が描かれています。
  • エピソード 04
    エピソード
    04
    仏に供える花から
    いけばなへ
    聖徳太子は2歳で「南無仏」と唱えるなど、仏教を篤く信仰しました。太子が重んじた『法華経』では仏を供養する10種類の方法のうち「華」が筆頭に記されます。その後、仏に供えるものは華・香・灯明の3つが重視され、三具足(みつぐそく)として道具も整えられます。この三具足が、室町時代には客人をもてなす道具として書院造りの座敷飾りとして用いられ、いけばなへと発展していきます。
  • エピソード 05
    エピソード
    05
    和の精神は
    華道へと
    太子創建の六角堂は池のほとりに僧侶の住坊があり、そこに住まう僧侶が“池坊”と呼ばれるようになります。室町時代には池坊専慶の花が京の人々の間で評判となったという記録があり、その後の池坊専応が『池坊専応口伝』で理念と技法をまとめ、華道が確立します。太子は十七条憲法で「和を以て貴しとなす」と説き、和の精神を示しましたが、池坊の「他を生かしてともに生きる」という、植物の多様な姿に美を見出し生かそうとする精神は、太子の和の精神から導かれるものとして、現在も受け継がれています。