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映画『花戦さ』の主人公“池坊専好”公式WEBサイト

戦国時代の家元 池坊専好(初代)
※戦国時代の家元、池坊専好は、
実際に存在した人物です。
戦国時代の家元 池坊専好
室町時代の後半、全国各地の戦国大名が覇権を競った時代に活躍した家元が池坊専好(初代)です。
紫雲山頂法寺(通称 六角堂)の執行を務めた専好は、先代 池坊専栄から受け継いだ花伝書に加筆や花瓶図を加えながら、立花の大成に大きく貢献しました。特に砂物の技法を図を用いて詳しく記すほか、「一瓶一色之事」として蓮花・杜若・水仙・菊・松を挙げています。この頃砂物の大型化が図られ、一色物立花の原型が成立したと考えられています。
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専好は戦国大名の屋敷に度々花を立てたことも知られています。
時の最高権力者だった太閤豊臣秀吉が、大名邸へ「御成り」する際に座敷を飾る花を求められ、毛利輝元邸では松真の立花と鶏頭真の立花を立てていますし、前田利家邸では幅7.2mの巨大な砂物を立てた記録が見られます。そうしたことから武家との関係を構築していた様子が伺えます。
さらに専好は六角堂に集う町衆や周辺寺院の僧侶との関係を示すエピソードとして「百瓶花会」という展覧会を開催しています。その名の通り100名の弟子とともに飾られた立花は、誰でも見学できる開かれた展覧会だったことが伝えられており、弟子や町衆に慕われる人物であったと思われます。
また、茶人・千利休との交流も知られており、ある茶席に生けてある花を見ただけで“専好の花”であることを言い当てたという逸話も残されています。
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4人の池坊専好
六角堂(頂法寺)の住職でもある華道家元池坊は、聖徳太子に仕えた小野妹子を道祖とし、現家元である四十五世池坊専永にいたる長い歴史を有しています。
その中で、「専好」を名乗った家元がこれまでに3人存在し、それぞれが六角堂や池坊いけばなにとって、重要な業績を残しています。そして2015年、現次期家元が4人目となる“専好”を襲名しました。
池坊専好(2代)
池坊専好(2代)
天正3年(1575)~万治元年(1658)
華道家元三十二世
後水尾天皇(上皇)に重く用いられ、寛永元年(1624)以降、内裏(京都御所)や仙洞御所における立花会で指導的役割を果たすなど、池坊の地位を高めました。
繊細・優美を特徴とする寛永文化にふさわしい立花の様式を大成して、寺院社会や公家社会、さらには町人たちの間にも立花の流行を巻き起こしました。
池坊専好(二代)
池坊専好(4代)
池坊専好(4代)
次期家元
1989年11月に得度し、次期家元に指名され、2015年11月に専好を襲名しました。
「いのちをいかす」という池坊いけばなの心を通した多彩な活動を展開しています。
紫雲山頂法寺副住職、日本いけばな芸術協会副会長、アイスランド共和国名誉領事。
池坊専好(四代)
池坊専好(初代)
池坊専好(初代)
生年不詳~元和7年(1621)
華道家元三十一世
天下統一を果たした豊臣秀吉によって京都の都市構造が大きく変えらえる中、町衆の信仰を集めていた六角堂の立場を守り抜きました。
天正18年(1590)に毛利輝元邸で、文禄3年(1594)に前田利家邸で、それぞれ秀吉を迎える立花・砂物を立てるなど、豪華で生命力あふれる桃山文化の担い手の一人として活躍しました。
池坊専好(初代)
池坊専好(3代)
池坊専好(3代)
天和元年(1681)~享保19年(1734)
華道家元三十五世
先代の専養の例にならい、自らの六角堂住職就任時と幕府の将軍交替時に江戸城へ挨拶に赴き、京都では知恩院における徳川家康百回忌で立花を献じるなど、幕府との関係強化に努めました。
宝永5年(1708)の大火で焼失した六角堂を、正徳3年(1713)、六角堂の本堂と長方形の拝堂の組み合わせという、現在とほぼ同じ形式で再建しました。
池坊専好(三代)
町衆に愛された六角堂
六角堂写真
池坊専好が執行(しぎょう)として実務を担っていたのが六角堂です。正式名称は、紫雲山頂法寺。587年に聖徳太子が建立し、遣隋使小野妹子がここに入ったと言われています。
昔から、京の真ん中にあり「六角さん」の名称で、京の町衆に親しまれてきました。
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六角堂は、室町時代の飢饉の際に炊き出しをしたり、都に危機が迫ると早鐘で急を知らせました。また、応仁の乱後に町衆によって再興された祇園祭の山鉾巡行順を決める「くじ取り式」が室町時代から幕末まで六角堂で行われていました。身分や宗派の隔てなく皆に愛されていた身近な寺院だったのです。
古くより花の名手を輩出してきた六角堂。江戸時代前半からは六角堂で学んだ町衆からも花の名手が生まれ、池坊いけばなは全国へと広がっていきました。